あき部屋

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汗をかく男

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今日は、暑かった。また、夏がくる。汗の季節がやってくる。あの日も、今日のように暑い日だった。何年も前の出来事が、まるで昨日のように思い出される。

「うわっ」と声がした。

歩きながら、頭の中で次の打ち合わせのシミュレーションをしていた私は、思わず隣の女性に目をやった。4月から入ってきた新人である。上司に押しつけられた。

「ほらほら、あの人」と彼女が、前を歩く男を指差す。

私たちの少し前を、汗でびっしょりの男が歩いていた。その男は、深い緑色のシャツを着ているのだが、肩から背中、脇の下あたりが完全に汗で変色していた。

なぜ、変色がくっきりわかるシャツを選ぶのだ。

私は、少し腹立たしかった。彼は、自分が汗っかきであることは自覚しているはずだ。だったら、なぜ、汗が目立ちにくい色のシャツを選ばない。

それとも「おれは、汗っかきの王様だ~」と自慢して歩きたいのか。「さあ、おれの汗を見て不快になれっ」と嫌がらせをしているのか。「汗がなんだ。ウンコを漏らして歩くよりはマシだ」と開き直っているのか。

実は、私も汗っかきである。

一度、大きな事故に遭い、何カ所も骨折しながら「ベッドの上で小便なんかできるか」とトイレまで歩こうと立ち上がった。すると一瞬で汗が噴き出し、たった10秒ほどで足下に水たまりができた。そばにいた看護師が「え~っ」と声を上げて驚いたほどだ。

素人考えだが、あの時、私の汗腺は壊れてしまったのだ。それ以来、私の汗はダダ漏れである。

ただし、私は汗染みを気にする小さな男だから、汗が目立たない服を着ている。最近のTシャツはよくできていて、色によっては汗がまったく目立たない。ワイシャツなどのビジネス用のシャツは、汗が目立つのであまり着用しない。まじめな席に出る時は、上からジャケットを着ることで汗を隠している。

「先輩は、ぜんぜん汗をかかないですよね」と彼女が言う。

「いや」と私は首を横に振る。「実は、多汗症だ。彼の3倍は汗をかく」

ははは、と彼女は笑う。どうやら冗談だと思ったらしい。その笑い声に反応したのか、前を歩く男がチラッと振り返った。身長173センチ、体重はおそらく78キロ。職業は不動産関連の営業マンとみた。

夏は、営業マンにとって最悪の季節だ。特に汗っかき営業マンにとっては、地獄の季節といっても過言ではない。目の前を歩く彼にとっても、今は地獄であろう。そして、それは、他者の目が生み出す地獄なのだ。

「でも、あんなに汗をかくと大変ですよね。私だったら人の目が気になって出られない」

「ある芸術家がこんなことを言っている」と私は、彼女に言った。「人に見られている、と思っているのは、自分の心が人の目のかわりをやっているということだ。キミが人の目と思っているのは、実は自分の『目』なんだ」

「え~っ」と彼女は、甲高い声を出した。「なんか、ややこしくて意味わかんない。誰なんですか、そんな変なことを言ったのは」

岡本太郎……と言いかけて、私は口をつぐんだ。彼女に岡本太郎の知識があるとは思えない。これ以上、この話題を続けることに意味はないだろう。

「爆発した芸術家だ」と私は言い、話題を打ち切った。そして、その時私は、右脇から横腹に流れる汗の一筋を感じたのだった。

また、あの夏がくる。汗の季節がやってくる。人の目と自分の目が入り交じる日々がやってくる。明日、私は、お気に入りの制汗剤をひとつ買うだろう。

 

 

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